英語教育の早期化が議論されることが多くなってきているが、実は明治維新の頃にも英語公用語化論があった。当時先進国であった欧米列強に負けないようにするためには、もう最初から英語で教育しないと太刀打ちできないんじゃないか、という考えから来るものであったらしい。当然と言えば当然で、この考え方はわからなくもない。しかし、明治時代の日本人はこれをはねのけ英語公用化をせずに日本語で教育を行った。
このために、明治の人たちは全ての言葉(外国語)を翻訳していった。日本人が日本語で勉強できるように。これには多くの先人たちのもの凄い努力があったたと推察される。これによって今の日本人は日本にいながら日本語で世界最高レベルの学問を勉強することができている。この環境を作ってくれた明治の先人たちには感謝すべきである。
さらにその後、戦争で負けたときにもう一度日本語の危機が訪れた。アメリカ人からすると、日本を支配するためには自分たちの言葉(英語)を喋らせるのが一番好都合であるため、日本語を止めて英語にするなどという議論もあったようだ。しかし、この危機も何とか乗り越えた模様(この部分はいつか調べて追記したい)。このように、言葉によって世界を支配しようとする動きが存在しており、英語支配の序列構造(下図)で表すことができる。
日本人は英語のネイティブスピーカーではないので英語で議論すると当然不利になる。ネイティブスピーカーたちはほとんど何の努力もしなくてよいにも関わらず、さらに優位に立てる。
日本人がネイティブスピーカー達と言語能力的に対等に会話するためには、相当な学習時間が必要になる。それはつまり、相当な時間他の勉強ができないということに等しい。日本語で考える力が奪われているわけである。様々な教養や物事を深く考える力、日本の歴史、政治、経済などの重要な内容を学ぶ機会が損なわれている。日本人が日本語で学び続ければ、より多くのことを深く考えられたはずが、過度な英語教育によってそれができなくなっている。
英語が喋れた方が良いというのはその通り、しかし言語はツールである、一番大事なのは何語で喋るかよりも「何を」喋るか。このことを見失ってはいけない。
参考動画は以下。